フレディ マーキュリー さん (人物伝)


【フレディ・マーキュリー (1946-1991年) 】

イギリスの音楽バンドグループ「クイーン」のボーカル。作詞家、作曲家。
ペルシャ系インド人。
ピュアでチャーミング Kawaii、愛情深い方。beautiful 。
女の人の事も、男の人の事も好きになってしまう。
サービス精神旺盛なエンターテイナー。
無二の類まれな美声をもつ。
7才からピアノを習い、クラシックにも詳しかった。
大学では芸術・グラフィックデザインを学ぶ。
親日家。猫好き。
エイズにより1991年11月、45才で死去。
1984年からの最愛の恋人、ジム・ハットンとは、最後まで愛しあいながら生を全う。

・日本の招き猫がほしかったけど、気にいるものが無く、結局、京都まで買いに行っちゃった。
・エイズだと公表し同情でCDを買われたくなかった為、死の前日まで病気を公表しなかった。


【クイーン】

1971年、ロンドンの大学時代に出会った4人でクイーンのバンドを結成。
「クイーン」と言うバンド名は、フレディのこだわりで命名。

当時は皆、別の分野の事を学んでいた。

・フレディ・マーキュリー(ボーカル) : 芸術・グラフィックデザイン
・ブライアン・メイ(ギター) : 天体物理学・博士号
・ロジャー・テイラー(ドラム) : 生物学
・ジョン・ディーコン(ベース) : 電子工学

1973年、デビュー。

ビートルズに憧れ、多重録音をフル活用。
音楽のジャンルを超え芸術を追求。

3rdアルバム内のキラークイーンで全英チャート入り。4thアルバム「オペラ座の夜」で勝負にでる。アルバム内の「ボヘミアンラプソディ」で全英の頂点に(9週連続1位を記録)。最終的には全米でも頂点に立つ。

1975年、当時、まだ世界的には無名であったクイーンが来日した際、羽田空港に思いがけず1200人もの女性を中心としたファンがつめかけ、大きな歓迎を受ける。日本でのライブも成功を納め、世界にでていく為の大いなる自信となる。以来、日本を特別な国と考え、6回、来日。
(火付け役は、日本の音楽雑誌ミュージックライフの編集者。エキゾチックで、長髪・美しい顔立ち、知性的、独特なサウンド、というキャッチフレーズで早くから雑誌に連続掲載。)
  →1976年には「手をとりあって」という楽曲を発表している。☆サビの一部を日本語で歌っている(アメリカ人の先生が教えてくれた)。恋人へのラブレター。2011年、東日本大震災の際は、チャリティCDアルバム「ソングスフォージャパン」にこの曲を載せている。


クイーンの歌 :  

・アイワズボーントゥラブユー 1995
(フレディが個人として発表した1985年のものに、クイーンの演奏を追加・編集したもの。)
・ショーマストゴーオン 1991
(フレディ病気で死にかけるも、命失うまで歌い続けるぞ、という決意の歌。ミュージックビデオがいい。)
・ドントストップミーナウ 1978
・ウィーアーザチャンピオン 1977
・ウィーウィルロックユー 1977
(以前は何とかロックユーの部分しか知らなかった。曲を最初から最後まで聴くとよかった)
・手をとりあって 1976
・ボヘミアンラプソディ 1975
(いろいろな葛藤をママに叫ぶ。ソウルフル、はじくようなピアノのバラード、オペラミュージカル、ロック。ミュージックビデオがいい。同名の映画上映中。)

◎映画 :「ボヘミアンラプソディ」
 2018.11〜2019 まだ上映中
    →フレディを中心とした、若者たちの青春映画。人間ドラマであり、クイーンサウンドをこれでもかと見せつける映画。
ん、感動。泣いた。 風貌や体格は違うけど、映画は映画として、とてもよかった。
この映画をみるのに世代は関係ない。
まだ上映続くかな。

自分の中ではフレディは生き続けている。
もはや不死身。
またブライアンメイさんなどが生存していることが救い。
フレディさんに出会えてよかった。
生きるのが楽しみになるワ ♪  



◎前回映画館を訪問したのは、4、5年前。
「STAND BY ME ドラえもん」2014年。
    →のび太がしずかちゃんと結婚するまでの話。号泣した。



ハローおさおさん

おさおさんのプロフィール情報/ 健康/ 食/ 生きる/ 人と人が2人集まれば異文化交流/ 異年齢交流の喜び・友達は0才〜100歳まで/ 日本語あそび/ 明治〜昭和の歌の研究/ (癒し系画像コーナーあり。PC・スマホ対応。)

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